殿堂入りのお皿たち

世の中にあまた煌めく珠玉のお皿たちの記録

コラム 食について書くこと ーなぜこのブログを情報発信ではなく、単なる「記録」としているのかー

 このブログを更新し続けるにあたって、どこかでは書いておかねばならないと思っていたことを書くこととする。

 珍しく、インフルエンザに罹患したことにより、今、この書くための時間を得ている。

 

 私は偉そうに食べ物についての自分の記録を公開している。

 この記録で、他の方に何かを誇示したいとか、影響を与えたいという意図はあまりないが、それらをまったく否定できるかというとそこまでは言い切れない。

 

 そうだとするならば、私のこの記録は極めて傲慢なものと言うべきである。

食というのは、とんでもなく深いものである。食べることは、科学的にも人文学的にも極めて重要なことである。私は、このことについてかなり深く考えてきたつもりではあるが、まだまだ不勉強なことこの上ない。

 また、表面上の食についても、理解しきれていないことだらけである。

 そんな私が、公開されている場に自分の文章を晒す、料理人の料理に大して論評のようなものを書く、というのは、何とも恥ずかしく傲慢な行為であると言わざるを得ない。

 

ひとつ、料理人の奥深い世界を示すエピソードを記すことで、自分への戒めを改めて銘記しておきたい。

                 ***

 その料理店は、店主は稀有なカリスマの持ち主であるが、およそ10人程度の弟子達を束ねている。そのお店では全員ではないかも知れないが、皆に船舶免許を取らせるそうである。

 そのおもしろおかしく聞かせるための表面上の理由は、まかないの経費削減だそうである。10人もの職人を食わせるためには、例えば、鶏であれば10kg単位での量が必要になる。それは経費的にはかなり重い負担である。そこで、船で、サメを釣り上げると、サメはかなり大型なので、サメ一匹で、処理さえちゃんとすれば、しばらくまかないが事足りるのだという。そのサメをみなが取れるように船舶免許を取らせるのだという。何とも繊細であり、かつ、豪快な話ではある。

 しかし、この話の本質は経費の問題ではない。

 この問題の本質は、食べると言うことは、命を頂く、という当たり前のことを当たり前に自覚するということである。

 食べ手はもちろん、このことを理解せねばならないが、現代では料理人ですら、その自覚が持ちにくくなっている。流通や分業制度が発達し、自身が必ずしも殺すという行為をしなくても料理が作れるようになっている。自分で食材を取り、自ら締めてその生物の命を奪う。本来この行為なくして料理を語ることは出来ない。サメなどの生命力のある生物、さらには、陸上の知能の高い生物を自ら殺すことで、食材とは何なのか、食べることの意味、調理することの意味、さらには、命の意味までも深く考えるようになる。本来、料理人はもちろん、食べ手にも、このような基礎能力は絶対的に必要である。

 ここまで書いてきて明らかなように、凡庸な食べ手である私が、本当の意味で、食べ物について語る資格がないのは明らかである。すなわち、私には、このブログでの記事を、他人様に読んで下さい、ということは恥ずかしくて出来ないわけである。

 それが、このブログが単なる「記録」である、と明記している理由である。

 

追記

 とはいえ、私にはかなり強い向上心があるので、このままの状態で良いとは思っていない。自身で生命について深く定義し、生きること、食べること、を今とは異次元まで深く理解し、食べることに関する文章を他人様に読んで欲しいと思うまで自身を成長させたいと思っている。その時には、ブログのタイトルが一部改変されることと思う(笑)